日本映画祭での公開前上映を機に見に行った。
以前から平野啓一郎には興味を持っていたのだけれど、映画の出来とともに原作のレベルの高さに舌を巻いた。
戸籍売買を扱った作品なのだけれど、それが自己アイデンティティーへの問いへと繋がっていて、大変奥行き深い映画だった。
ひと月前に愛犬を亡くした私にとって身に染みたシーン
二人目の子供を脳腫瘍で亡くしたりえ(安藤サクラ)が思い出を語るときに、悪性だと知らなかったから、一生懸命治療して治そうとして、辛い放射能治療などをさせてしまった。治らないんだったら、もっと楽しい経験をさせてやればよかった、と涙ながらに語る場面。愛犬は老犬だし、保険も効かない犬だから手術はしなかった。全身麻酔の手術が辛いかとどうかはさておき、一年以上、症状を抑える薬を飲ませながら、ともかく辛くないように、楽しい時間を過ごせるように、というポリシーで過ごしてきた。それでよかったんだろうと改めて思った。
治療はしない、するのは緩和治療のみ。できることを無理せず続けていく。
リエの子供は死んだ男に懐いていて、パパ、と呼んでいた。この男の素性が誰であるか以前に、この中学生の男の子にとってこの男と過ごした日々が本当だった。「パパ」が亡くなって、悲しくはない、ただ居なくて寂しい、と語る少年の言葉が愛犬を無くした自分の心情と重なった。寿命だったし、精一杯生きたし、悔いも(あまり)ない。ただ居なくて寂しい。自分と一緒にいる中で男の中に嘘があったか、なかった、などよりも大切なものがあるのだ。少年にとって死んだ男と生きた時間は真実だった。男の素性に嘘があったとして、それにどんな意味があるのだろう。
この少年は、男の死後、母親に泣いて責める。僕は生まれた時、「⭕️⭕️性(母親が別れた夫の姓)だった、それから⭕️⭕️性(母親の元の性)となり、再婚した谷口性とすでに3度変わっている。日本における生活において苗字が社会的に重要であることは否めない。苗字が変わることは本人のアイデンティティーを揺るがせるぐらい大切なことだ。
日本独特の問題もあるが、在日の問題、なども含めて、人のアイデンティティーとは何かを問う優れた映画だった。原作を読んでみたい。

コメント
コメントを投稿